時間の流れの中で

今年はどんな年だったでしょうか?

時間は人間が自転をもとに作り上げた観念です。1年と言う区切りをつけることで、1年という時間で何ができたか何ができなかったかを考え直すことができます。もちろん、1日の中で、今日できたこと、できなかったことを考え、1日1日大切に生きていきたいものです。というのも、明日、どうなっているか判りません。先を考えていてもその通りになるわけではありません。しかし、明日が何が起こるか判らないまま生きているのです。今日と変わらない日々が流れて行くのです。その積み重ねが1年です。

 

1年振り返ると

他愛のない1年だったような気がします。職場も変わらず、現状に不満を持ちながら、1年が過ぎてしまったというのが私の実感です。過去を振り返ると、後悔しかありません。1年を終えることができたことを感謝して、来年への希望を持ちたいと思っています。自信のない人生を過ごしてきました。多分、これからも自信のない人生を過ごすと思います。ただ、いろいろなことをすることで、気が紛れるのではないかと思っています。

今年は、医学書を出版することができ、学会事務局として学会の開催に関わりましたが、一般の講演が2回、学会発表が3回、研究会が5回、論文作成が3本程度で終わってしました。

 

来年は

来年も忙しい職場の外でも、いろいろと忙しそうです。どうも、走っていないと不安になるのかもしれません。とはいえ、講演などの依頼が来ないと寂しいし、来年も本が出せたら良いのですが…。こればかりは自分ではどうしようもありません。

 

来年の確定事案は、一般の講演が4回、学会発表が未定、研究会発表が未定、論文作成も未定、本も未定です。最近、資格も取れていません。何とも自滅気味です…。

大学で9月から教鞭(熱弁をふるう?)を取ることになりました。この準備で今から忙しくて何もできていないかもしれません。もともと宿題が残っているのが気持ち悪く、早く資料を作ってしまいたい気分です。

 

良いこと、悪いこと、いろいろなことがあったと思います。

それは、良いこともあれば、悪いこともあります。

昔から、

「禍福は糾える縄の如し」

人間万事塞翁が馬

という諺があります。

 

来年が良い年でありますように

 

心が落ち着く3つの言葉

さて、今日、3つの言葉がふと浮かびました。忘れないように、ブログに書きます。

 

■大丈夫

人は緊張したり、ピンチの時に、頑張れは良くないと言われています。むしろ、自分の状態を落ち着かせる意味では、今の状況について安心が欲しくなりますし、ピンチから抜け出す力が必要になります。その意味で、この「大丈夫」と言う言葉はいいかも。ピンチの時に、大丈夫、チャンスになるよ。チャンスの時に、大丈夫、そのままでいいよなど、どちらにもポジティブになります。

 

■何とかなる

いろいろと不安になったり、心配になります。でも、大丈夫です。何とかなると思えば、何となる。そう思うと楽になりませんか?もちろん、何ともならないこともあるかもしれません。そんな時は

 

■ひとりじゃない

人は社会の中で生きていく上で、1人で生きていくことができません。誰かが働いて、食べ物を作ってくれて、食べ物を食べて、寝る場所を作ってくれて、休むことができます。今、周りに人がいないくても、心の中には、多くの人が生きています。尊敬する人、身近な人、そんな心に生きている人が、その人だったらどうしていただろうと考えると、ひとりでないと思えれるかもしれません。

 

この3つの言葉をつなげてみましょう。

大丈夫!何となる!ひとりじゃない!

どうでしょうか?

口に出してみると、落ち着きませんか…

世界でいちばん豊かな大統領

「世界でいちばん貧しい大統領のスピーチ」が絵本として発売されています。

 

昨日、ミスターサンデーというフジテレビ系列の番組で世界でいちばん貧しい大統領と言われたウルグアイの前大統領であるホセ・ムヒカ氏の単独インタビューが紹介されていました。大統領は国民の代表だから、国民の平均の生活をすると言われていました。

 

日本で、国民を代表するとされている国会議員が、国民と同じ生活をしている人が居るでしょうか?

そもそも、歳費だけで年収1000万円を超えています。そんな人たちが国民の生活を理解できているのでしょうか?

 

老子の教えに、

「足るを知る者は富む」とあります。

「人の欲望にはきりがなく、自分の満足する相応を知っている人は、たとえ経済的に貧しくでも、精神的には豊かで幸せである」ということからすれば、

 

実は、この絵本の題名は、実は、「世界でいちばん豊かな大統領のスピーチ」または「世界でいちばん幸せな大統領のスピーチ」なのではないかと思っています。

 

今の貨幣経済において、貨幣によって、生死が左右されてしまっています。貧困の連鎖からはなかなか抜け出しく世の中になっています。社会保障は脆弱で、年金を含めて、もはや、老後は自ら備えなけばならない状況にあります。貨幣経済においては、何をするにもお金がかかります。既に、お金の奴隷になっています。ただ、貨幣経済が無ければ、すべての人は自給自足の生活をすることになります。分業のためには、貨幣が必要です。

 

自分を振り返ると、少しでも経済的な安定を求め、全く心に余裕がなくなっています。労働と対価という意味では、対価のアンバランスが経済的格差を生みます。

労働しなければならない状況に自由もなくなっているとも言われています。

国は変わらないかもしれないけど、自分は変えられるとホセ・ムヒカ氏は言われていました。確かに自分を変えることができるのは自分かもしれません。心を豊かにするためには、最低限の生活で、後は、自分は何ができるかということかもしれません。

一人一人が変わることで、社会が変わるかもしれません。

そして、政治を変えることができるかもしれません。

礼節とおもてなし、様々な宗教に寛容で長い歴史をもつ日本の国民が、「世界で一番豊かな国民」と言われるかもしれません。

芸術、文化の評価は難しい

今回、オリンピックのエンブレムに応募資格が厳しかったようです。

既に賞を受けた人しか応募できなかったようですが、芸術、文化での評価は数字化できないために、難しいものです。

いろんな人が応募できたらよかったかもしれません。そうすれば、数が多くなり、選考に支障が出るのであれば、真剣に応募できるような工夫、例えば、選考に審査料を必要とするとか、あったかもしれません。

 

ご当地キャラでも、公募をして、一番人気の名前やキャラクターが採用されるとは限りません。つまり、選考基準が数字化されないのです。

 

今回の、オリンピックのエンブレム選考についても、普通、選考されたものが何度も修正されるものなのでしょうか?確かに企画書は採用されても修正されるでしょう。でも、デザインに関しては、修正すれば、別のデザインになるのではないかと思ってしまいます。

修正を必要とするものを選ぶということは、ベストを選んでいるわけではないという疑念が生じるのは自然の流れのような気がします。

多分、そうした自然な発想と選考とは乖離があって、今回の騒動になったわけです。

もう少し早く判断すれば、損失も少なった可能性があります。

何だか後手後手に回っているような状態のようです。

 

もちろん、失敗は付き物ではありますが、失敗を次にいかに生かすかが大事になってきます。しかし、芸術の評価は難しい。そして、その評価1つで、高価にもゼロにもなるわけです。

 

きっと、自分が気に入れば自分にとって価値があり、自分が気に入らなければ、自分にとってはゼロなんでしょう。そう思える人が多いほど、価値が高いものかもしれませんが…。

この閉塞感は何なんだ?

社会は様々な人によって構成されており、人によって成り立っています。社会を人間に例えるなら、人は細胞や臓器に例えられます。社会が生存するためには、人それぞれが役割を持って、生きていくことになります。ところが、今、生きにくい世の中になっていないでしょうか?

 

なぜでしょうか?

1つには情報の伝え方にあるのではないでしょうか?著名な人のコメントがすべてを代表されているような報道が見られます。力をもつ人の意見が通っていきます。その力の源泉は何でしょうか?同じ人間でありながら、力が異なるのはやはり、役割があるのでしょう。

 

しかし、その役割を間違えた時には、社会全体は成り立たない可能性もあるわけです。自分の役割を知ってほしいものです。社会のトップはいかに社会を成り立たせるかが重要なのであって、喧嘩をして社会を守ることではないはずです。

 

人間に例えるなら、臓器が勝手に動いてしまったり、身体にとって有害なものになってしまうわけです。勝手に増殖してしまう腫瘍のように…。

 

今の日本はどうでしょう?他人の喧嘩に加勢する法案が通りそうです。当然、喧嘩の当事者になる以上は、それなりの覚悟は必要ですが、その覚悟があるのでしょうか?一度、喧嘩になると、落としどころが大切ですが、果たして、そこまで考えているのでしょうか?

 

戦争に法はありません。生きるか死ぬかです。戦争は破壊のみです。

朝鮮戦争ベトナム戦争湾岸戦争などはどうでしょうか?戦争によって戦争のない世界になったでしょうか?

 

本来は、もう少し具体的に言いたい所ですが、すぐに炎上するネット社会においても、何だが落としどころが無くなっているような気がします。

大きな仕事ほど慎重に

最近、画期的な発見、オリンピックなどに関連して、物事が大きいほど、その善し悪しが注目されています。

元になる記事は、想像に任せます。

 

日常生活でも監視カメラが多く存在し、ネットで情報が簡単に手に入る社会ですから、ネットで指摘されることが多くなりました。

注目される仕事ほど、その内容については慎重にあるべきです。

特に、デザインや文章などの著作物に関しては、以前、同じようなものがないかどうか調査する必要があります。特許の場合は、登録されていますので、確認は可能ですが、著作物に関しては、登録されていません。

そのため著作物についても、摸倣したかどうか、著作者の心の中次第になってきます。独自に作ったものがたまたまに似ていた、似ていたものがあるのを知らなかったとすれば、これについての白黒つけにくいと言えます。

というのも、例えば、三角形を3つ使って、デザインを100人にお願いしたら、同じもの、似たものが出てきます。

なぜでしょうか?

人はこの社会では、ほぼ同じような生き方をしているために、日常生活で同じものを見ているわけです。感じ方は少し違っても、例えば、「にんじん」と言えば、野菜の人参で、赤くて三角形、緑がついているイメージですよね。

 

馴染みのあるデザイン、シンプルなデザインほど注意する必要があります。

 

最後に、著名な人ほど、仮に部下に仕事をさせたとしても、その著名な人の名前で、仕事をしていると周りを見ているわけですから、部下の失敗は、自らの失敗と言えます。

今回のトートバックの問題で、トカゲのしっぽ切りによる終息では、長たる力量に疑問符が付きかねません。

 

しかし、出る杭を打つ世の中もちょっと厳しいかもしれませんが…。

出ることができない私には関係ないです。

成功体験の基づくノウハウは役に立たない?!

様々な企業を成功させた、発展させた人のノウハウの本の通りにして、成功した人はいるだろうか?

人は、つい、自分の成功体験を語りたくなります。自分も例外ではないと思っています。しかし、人が自分の同じことをして、同じ結果になるとは限りません。失敗することもあれば、自分よりいい結果を残すこともあるかもしれません。

 

成功体験には、表と裏があります。

 

どういうことでしょうか?

 

表は、人に嫌われないようなことで、裏は人に嫌われることです。

 

人に嫌われることをわざわざ書くことはありません。書いても、むしろ、正当化するような記載になることが多いです。

 

また、同じことを10人に行っても、人によっては良かったと思うことあれば、悪かったと思うこともあります。

 

前回も書きましたが、良い結果を残したことがすべてではないのです。

 

負の面こそ、反面教師から学ぶことが多いのです。前例が無いことが起こった時に、起こった事象を次にいかに生かせるかにかかっていると思います。

 

そして、悪い結果に向かっているとするならば、そこで立ち止まる勇気も必要かもしれません。

 

事業とは難しいものです。1人ではなく、多数の人の協力があっての事業ですから。協力なくして、成り立ちません。トップの死角は、自分が決め、自分で行った、それが成功したのは、自分の成功体験と思っていることです。

 

例えるなら、今は、有名な観光名所である万里の長城。作った人は偉大?かもしれません。

万里の長城は、始皇帝が作ったかもしれませんが、自分が作ったわけではありません。多くの犠牲の上に成り立っているのです。

 

トップの才は、恐らく、リスクマネジメントができるかどうかにかかっていると思います。想定されるリスクを減らし、失敗を最小限とすることです。

 

うまくいったからと言って、いつでも誰でもうまくいくとは限りません。もし、成功体験のノウハウは、自分なりにしっかりと解釈する必要があります。