芸術、文化の評価は難しい

今回、オリンピックのエンブレムに応募資格が厳しかったようです。

既に賞を受けた人しか応募できなかったようですが、芸術、文化での評価は数字化できないために、難しいものです。

いろんな人が応募できたらよかったかもしれません。そうすれば、数が多くなり、選考に支障が出るのであれば、真剣に応募できるような工夫、例えば、選考に審査料を必要とするとか、あったかもしれません。

 

ご当地キャラでも、公募をして、一番人気の名前やキャラクターが採用されるとは限りません。つまり、選考基準が数字化されないのです。

 

今回の、オリンピックのエンブレム選考についても、普通、選考されたものが何度も修正されるものなのでしょうか?確かに企画書は採用されても修正されるでしょう。でも、デザインに関しては、修正すれば、別のデザインになるのではないかと思ってしまいます。

修正を必要とするものを選ぶということは、ベストを選んでいるわけではないという疑念が生じるのは自然の流れのような気がします。

多分、そうした自然な発想と選考とは乖離があって、今回の騒動になったわけです。

もう少し早く判断すれば、損失も少なった可能性があります。

何だか後手後手に回っているような状態のようです。

 

もちろん、失敗は付き物ではありますが、失敗を次にいかに生かすかが大事になってきます。しかし、芸術の評価は難しい。そして、その評価1つで、高価にもゼロにもなるわけです。

 

きっと、自分が気に入れば自分にとって価値があり、自分が気に入らなければ、自分にとってはゼロなんでしょう。そう思える人が多いほど、価値が高いものかもしれませんが…。

この閉塞感は何なんだ?

社会は様々な人によって構成されており、人によって成り立っています。社会を人間に例えるなら、人は細胞や臓器に例えられます。社会が生存するためには、人それぞれが役割を持って、生きていくことになります。ところが、今、生きにくい世の中になっていないでしょうか?

 

なぜでしょうか?

1つには情報の伝え方にあるのではないでしょうか?著名な人のコメントがすべてを代表されているような報道が見られます。力をもつ人の意見が通っていきます。その力の源泉は何でしょうか?同じ人間でありながら、力が異なるのはやはり、役割があるのでしょう。

 

しかし、その役割を間違えた時には、社会全体は成り立たない可能性もあるわけです。自分の役割を知ってほしいものです。社会のトップはいかに社会を成り立たせるかが重要なのであって、喧嘩をして社会を守ることではないはずです。

 

人間に例えるなら、臓器が勝手に動いてしまったり、身体にとって有害なものになってしまうわけです。勝手に増殖してしまう腫瘍のように…。

 

今の日本はどうでしょう?他人の喧嘩に加勢する法案が通りそうです。当然、喧嘩の当事者になる以上は、それなりの覚悟は必要ですが、その覚悟があるのでしょうか?一度、喧嘩になると、落としどころが大切ですが、果たして、そこまで考えているのでしょうか?

 

戦争に法はありません。生きるか死ぬかです。戦争は破壊のみです。

朝鮮戦争ベトナム戦争湾岸戦争などはどうでしょうか?戦争によって戦争のない世界になったでしょうか?

 

本来は、もう少し具体的に言いたい所ですが、すぐに炎上するネット社会においても、何だが落としどころが無くなっているような気がします。

大きな仕事ほど慎重に

最近、画期的な発見、オリンピックなどに関連して、物事が大きいほど、その善し悪しが注目されています。

元になる記事は、想像に任せます。

 

日常生活でも監視カメラが多く存在し、ネットで情報が簡単に手に入る社会ですから、ネットで指摘されることが多くなりました。

注目される仕事ほど、その内容については慎重にあるべきです。

特に、デザインや文章などの著作物に関しては、以前、同じようなものがないかどうか調査する必要があります。特許の場合は、登録されていますので、確認は可能ですが、著作物に関しては、登録されていません。

そのため著作物についても、摸倣したかどうか、著作者の心の中次第になってきます。独自に作ったものがたまたまに似ていた、似ていたものがあるのを知らなかったとすれば、これについての白黒つけにくいと言えます。

というのも、例えば、三角形を3つ使って、デザインを100人にお願いしたら、同じもの、似たものが出てきます。

なぜでしょうか?

人はこの社会では、ほぼ同じような生き方をしているために、日常生活で同じものを見ているわけです。感じ方は少し違っても、例えば、「にんじん」と言えば、野菜の人参で、赤くて三角形、緑がついているイメージですよね。

 

馴染みのあるデザイン、シンプルなデザインほど注意する必要があります。

 

最後に、著名な人ほど、仮に部下に仕事をさせたとしても、その著名な人の名前で、仕事をしていると周りを見ているわけですから、部下の失敗は、自らの失敗と言えます。

今回のトートバックの問題で、トカゲのしっぽ切りによる終息では、長たる力量に疑問符が付きかねません。

 

しかし、出る杭を打つ世の中もちょっと厳しいかもしれませんが…。

出ることができない私には関係ないです。

成功体験の基づくノウハウは役に立たない?!

様々な企業を成功させた、発展させた人のノウハウの本の通りにして、成功した人はいるだろうか?

人は、つい、自分の成功体験を語りたくなります。自分も例外ではないと思っています。しかし、人が自分の同じことをして、同じ結果になるとは限りません。失敗することもあれば、自分よりいい結果を残すこともあるかもしれません。

 

成功体験には、表と裏があります。

 

どういうことでしょうか?

 

表は、人に嫌われないようなことで、裏は人に嫌われることです。

 

人に嫌われることをわざわざ書くことはありません。書いても、むしろ、正当化するような記載になることが多いです。

 

また、同じことを10人に行っても、人によっては良かったと思うことあれば、悪かったと思うこともあります。

 

前回も書きましたが、良い結果を残したことがすべてではないのです。

 

負の面こそ、反面教師から学ぶことが多いのです。前例が無いことが起こった時に、起こった事象を次にいかに生かせるかにかかっていると思います。

 

そして、悪い結果に向かっているとするならば、そこで立ち止まる勇気も必要かもしれません。

 

事業とは難しいものです。1人ではなく、多数の人の協力があっての事業ですから。協力なくして、成り立ちません。トップの死角は、自分が決め、自分で行った、それが成功したのは、自分の成功体験と思っていることです。

 

例えるなら、今は、有名な観光名所である万里の長城。作った人は偉大?かもしれません。

万里の長城は、始皇帝が作ったかもしれませんが、自分が作ったわけではありません。多くの犠牲の上に成り立っているのです。

 

トップの才は、恐らく、リスクマネジメントができるかどうかにかかっていると思います。想定されるリスクを減らし、失敗を最小限とすることです。

 

うまくいったからと言って、いつでも誰でもうまくいくとは限りません。もし、成功体験のノウハウは、自分なりにしっかりと解釈する必要があります。

結果論から話し始める怖さ

医療に対するネガティブな書籍が本屋で平積みされています。医療に批判的な題名が踊っています。私は、このような書籍を買わないし、読む気もないので、直接的な批判、批評は避けたいと思います。

ただ、この世の中、あまりにも結果論から、非難されることが多くなった印象を受けていますので、ここであえて持論を述べたいと思います。誰かを批判するつもりはありません。

 

■がんとがんもどきについて

がんは治療しても治らないから治療しない。がんもどき(この言葉は好きではないのですが、一般的に普及されているので、あえて使いますが)は、治療しなくても治るから治療しない。だから、がんは治療しないと言う論理はどうでしょう?最初からがんかがんもどきか判っているなら、その通りでしょう。でも、診断時点で、100%、がんかがんもどき区別することは不可能に近いのではないでしょうか?

 

■結果が悪いと訴訟

例えば、手術の結果、死亡した場合、失敗と言って、非難されることがあるかと思いますが、悪い結果を願って手術しているわけではありません。確かに、手術の成功率は人によって様々かと思いますが、100%、どんな条件でも成功する手術はありません。

 

そもそも、この世の中は、残念ながら、100%と言えるものがない、混とんとしているのです。秩序があるように見え、また、自然現象が数式で証明できたとしても、その自然現象が永続しているかどうか誰にもわからないし、本当の真実は何なのか、未だに結論は出ていない気がします。

それは、人は、時間軸を、現時点で、一方通行で生きている以上、過去に戻ることができませんからだと思います。

 

仮に、戻ることができたとしたら、戻ることを前提に、現在の世の中が動いていますので、常に修正されてしまいます。例えば、バックツーザフーチャーという映画ですが、娯楽的には面白いと思いますが、時間軸で考えると、過去に戻った時点、時間軸が既に違った時間軸になりますので、タイムマシンを開発した時間軸は消えてしまい、その違った時間軸で、またタイムマシンが作られるかどうかになります。常に、タイムマシンが作られる時間軸の上に、人は乗っていることになります。

 

ともあえ、現時点では、過去に戻れない以上、結果だけで判断するのではなく、そのプロセスを大事にしたいものです。

 

医療においては、人は、体のどこかで故障して、病気になります。その病気によって様々な障害が出てくるわけです。それを見つけて、治せる場合は治していくのが医療行為です。医療行為で死亡するのではなく、発見ができなかった病気によって死亡するのです。病気の早期発見に心がけていても、100%見通せる人はいるでしょうか?

 

この世の中、無常であり、常に時間が流れ、常に全く同じものはありません。

 

医療では、悪い結果をできるだけ減らす努力は必要でしょう。この世の中、一度も失敗したことがない人はいない。今までなかったから、起こることはないと言えないのです。結果論だけで結論を出すのは危険です。

 

結果でなく、プロセスも大事です。

他人の型を飲み込む器量を

十人十色と言う言葉で示されるように、十人いれば、十人、違った考え、違った価値観があります。そして、やはり、自分が常に正しいと思っていては、自分の主張を通すことになります。

 

でも、それでいいのでしょうか?

 

いろいろな意見をしっかりと合わせながら、いいものにしていく姿勢が最近少なくなってきたように思います。

 

声の大きな人が場を仕切っていく、確かに、自分に自信があれば、自ずと声を大きくなるでしょう。そして、相手に同意を求め、自分の主張を通していきます。

 

これだけは譲れないこともあるかもしれません。

 

何かを決める時には、リーダーシップは必要ですが、強引さは不要です。

 

人が失敗する時に、大きな弱点が「思い込み」です。思い込みは油断を生みます。強引さは思い込みの結果にほかなりません。

 

政治とは、正しく治めるわけですから、治めるのは押し付けるのではありません。

 

ぜひとも、相手の意見にも耳を傾け、妥協点で着地することが、一番、ソフトランディングのような気がします。

 

他人を自分の型にはめてしまい、その型に外れたことに非難するのではなく、自分の器を大きくして、他人の型をも飲み込むぐらいの器量がリーダーには必要です。

 

了見は広くしたいものです。

 

議論がかみ合わないとき、それは自己主張ばかりしているときかもしれません。

相手の言葉に耳を傾ける、相手は頭ごなしに決めつけない、それがコミュケーションに必要ですし、コミュケーション不足が誤解が生まれます。

優秀な馬でさえ老いては平凡な馬にも劣る、いわんや…

騏驎(きりん)も老いては駑馬(どば)に劣るという諺をご存じでしょうか?

 

どんなにすぐれた才能を持っている人もで年を取って老いてくると衰えてしまい、普通で平凡な人にも及ばなくなるということです。

 

騏驎は、駿馬と言って、足の速い優秀な馬です。

駑馬は、足の遅い平凡な馬です。

馬は、足の速さで判断されています。

 

では、騏驎より劣る馬ならどうでしょう?老いると、もっと駑馬(どば)に劣ることになります。

 

自分の能力を知っておくべきで、自分の引き際も大事かと思います。

 

自動車の運転も、ちょっとした不注意が大きな事故につながります。自分も自動車運転の引き際を考えています。

仕事でも同じことかもしれません。大きな影響のない部分では生涯現役は可能でしょう。しかし、能力の低下が事故を招くのであれば、引くべき時は引くべきかもしれません。

 

ところが、騏驎は優秀なので、その引き際を知っていますし、駑馬は自分の能力を知っているのですが、騏驎より劣る馬は一番厄介です。引き際も能力も知らないからです。

自分だけはそうありたくないと思う今日この頃です。