メールでアポイントメントの取り方
以下2つの文章は、私に対してメーカーの商品のPRをしたいので、メールでアポイントメントの依頼をしたメールの文章一部引用しています。
個人的には違和感を感じてしまいました。
例文1
「アポイントの件でメールさせていただきました。
もし宜しければ以下の日程で○○のご都合がよろしい時間帯で15分ほど面会させて頂けないでしょうか。上司と一緒に伺います。
①○月×日 1×時~1△時の間
②○月△日 1×時〜1△時の間
お忙しいところ大変恐れ入りますが
何卒宜しくお願い致します。」
例文2
「平素は格別のご高配を賜り、厚く御礼申し上げます。
また、日頃のご指導深謝申し上げます。
面談のアポイントを頂戴したくご連絡差し上げました。
お忙しい所、大変恐縮では御座いますが、下記日程にて
ご都合の良いお時間帯が御座いましたらご教授頂きたく思います。
何卒、宜しくお願い申し上げます。
①○月×日 1×時~1△時の間
②○月△日 1×時〜1△時の間」
私から会いたいと言ったわけでも、PRを聞くメリットが無いとして、会いたいと思いますか?
皆さん、どう思われますか?
この2つの文に共通しているのは、相手の都合を優先していないことです。
例文1は上司の都合に合わしてお願いします、例文2は自分の方が忙しいので、この日に合わしてください。
別に、私が暇だったら合わしたらと思うかもしれません。
でも、これで会いたいと思いますか?
ここで、ちょっと添削してみましょう。
「平素、大変お世話になっております。
この度、御社では、○○が発売されました。この○○は××の特徴があり、データを含めてご案内させていただきたいと思っております。少しお役に立てる情報を提供できたらと思っており、つきましては、実際に面談させていただき、ご紹介できる機会を頂けたらと思い、突然ではありますが、メールさせていただきました。15分程度面談時間を頂けたら幸いです。
お忙しいとは思いますが、ご配慮のほどよろしくお願いします。
日程ですが、本来ならご都合のよい日時をお伺いして、合わさせていただきたい所ですが、何度もメールのやり取りもお手数をお掛けしてしまいますので、勝手ながら具体的な日時をご提案させていただきました。
①○月×日 1×時~1△時の間
②○月△日 1×時〜1△時の間
ご都合の悪い場合は、○月中でご都合のよい日を3~4つほどご提示していただけたら幸いです。よろしくお願いします。」
どうでしょうか?とはいえ、私自身、ビジネスには慣れていないので、まだ未完成かもしれません。
でも、例文1や例文2よりは、相手の都合を優先したい気持ちが出ているのではないでしょうか?
All Aboutガイドをするようになって、異業種の方を話をすることが多くなりました。業界内ですが、「井の中の蛙」になってしまいます。
HPの内容に騙されないように
先日、古くなった電子ピアノを処分することにした。
を信じて、処分を申し込んだ。
処分当日に、引き取り当日に、電子ピアノ自体は問題ないのに、ACコード(取り離し可能)の接触不良を理由に有料になってしまい、それも、他の処分業者より高い値段を言われた。
HPには、無料での引き取りを書いてあるのに。無料ほど怖いものはないということと、こうした過大報告する会社を二度と信用できない。まあ、こうした会社を信じた私がバカなのかもしれませんが、HPの内容には注意が必要です。今は人間不信状態です。
キャンセルしてもよかったのだが、そう時間を取ることもできず、泣く泣く支払うことにした。
あまり誠意も感じられない業者で、きっと、両手商売しか考えていない印象を持った。
古物商は、自ら製造しているわけでなく、ある意味仲介業、お客様あってのビジネスと思う。
だまされたと言う恥を書くこともなるが、私のように被害に遭わないようにあえて、書くことにした。
こんな残念な会社は二度と縁がないと思うし、しっかりとこんな会社注意みたいなことは繰り返し、書いていこうと思う。
私の言うことは小さいので、多分、この残念な富士楽器には痛く痒くないのでしょう。
千里の堤も蟻の穴から崩れることがあって欲しいものです。
本当に後悔しない人生ってあるの?
ここに来て、今までの人生を振り返った時に、これでよかったのかと思う今日この頃。走り続けた人生とはいえ、このまま同じ方向で走っていていいのか?修正するのであれば、早い方はいいのではないか?
何だがどうでもいい気持になったり、このままでは人生終われないと思ったり、人生の終着駅が近づいてくると、いろいろと考えてしまう。
どんな選択をしても、後悔しているのだろうなあ…。
もう1つの選択をしていれば、今よりよい人生だったかもしれない。それは想像にしか過ぎない。
今、ツライなら、きっと別の人生の方がよいと考えてしまう。でも、もっとツライかもしれない。
決して、過去に戻ることができないのに、つい、過去に縛られてしまう。
今日より明日が少しでも良くなればと願っても、現実は変わらない。
どうすればよいのか考えても、何の考えも浮かばない。きっと、どんなに考えても、意味のないことかもしれない。
生きていることがつらくなったとしても、生きるしかないのかもしれない。
いずれは死んでいく。だから、あえて、生きることを選ぶ。
最後まで後悔ばかりしているのかもしれない。きっと悔いが無いなんて、最後ぐらい嘘をつきたいのかもしれない。
いろいろと気を使っても、真意が伝わない時には、結局、すれ違いのまま。
少しだけ、優しくなれたらと
わずかだけ、冷静になれたのであれば
やっぱり、後悔ばかり。
後悔もすべて背負って生きていく。それしかないのかもしれない。
参議院選挙は人気投票なのか?
各党の著名人への出馬要請が報道されていますが、要請されている人は、その分野で活躍され、結果を残された方で素晴らしいと思います。
要請されることは、その能力を買われた結果かと思います。
でも、ちょっと待ってください。
客寄せパンダになっていませんか?
政治家になれば、何かできることがあるかもしれません。しかし、組織の中で、いかに1人の力がいかに無力かと感じることはありませんか?自分で結果を残した人は、つい自分の力を過信してしまうかもしれません。
どの分野も必ず、裏方の方が居られてこそ、結果を残してきたのではないかと思います。
異業種では、必ずしも結果を残せるとは限りません。
生兵法は大怪我のもとと言います。つまり、異業種への展開には、ある程度の準備は必要かと思います。
有権者も、賢明な選択をしないと、自分に返ってきそうです。
消費税を上げると、個人消費が減り、物が売れなくなると、企業の景気が悪くなり、賃金が減り、消費が減る。景気が悪いと税収が減る。今の税収が少ない状況で、支出が多いと、借金ばかり膨らむ。でも優秀な財務省の方は消費税を上げたい。
今の政権に景気対策を期待したのに、肝心な景気がうまくいかず、白紙委任のつけが来ているような気がします。
今度の選挙では、白紙委任や人気投票にならずに一票を。
政治家になるのに選挙のみ?
専門的知識を有する職業には資格試験があります。また、公務員になるには、公務員試験を受験し、合格しないとなれません。国会議員は立法府にあって、法律の作成することになりますが、法律の知識なしでも大丈夫でしょうか?
ある記事を受けてのコメントではありますが、一般論としてコメントしたいと思います。
よく、当選してから、「これから勉強します」というコメントを耳にします。税金を使って、勉強するのではなく、勉強してから、立候補して、当選してほしいと思うのは私だけなんでしょうか?
知名度であれば、当選できるほど、甘くはないと思う一方で、実際に、集票できている現実から、政党はそうした人物を選んでいるようです。
公的な政治家の秘書は、国から給与も出るので、試験があります。
政治家に、最低限として、憲法、民法、刑法、一般教養の試験を行い、ただし、大学で既に選考にしている人は免除にしたら、当選してから勉強しますと言うコメントは出ないでしょう。
どの世界も即戦力が必要とされています。医師国家試験に合格していない医師には診てもらいたくないですよね。
ヒアリングは聞くだけ…
組織の中でヒアリングありませんか?
今まで、私の職場でも中間管理職としてヒアリングがありました。その時に、法律の遵守を主張しました。しかし、ヒアリングの結果、どうなったかも何の回答もないままで、違法状態(いわゆるブラックホスピタル状態)のままで、また、ヒアリングがあります。
ヒアリングは、「聞くこと」と訳されますが、どうもそのまま、組織のトップは聞くだけのようです。一応、意見を聞いてやっているという一種のパフォーマンスとして、ヒアリングを行っているようで、しかも、定年間近のトップがヒアリングするわけですから、果して、何のためのヒアリングは判らない。
人の貴重な時間を使っている認識はトップにない。
私は、医学以外の知識を有し、はっきりとものを言っているので、こんな職場では重用されません。
皆様の組織にも、こんなことはありませんか?
唐の太宗である李世民の時代に、貞観の治と言って、中国史上、もっとも理想的な政治であったと言われています。李世民は、思ったことをはっきりと言う魏徴という部下を常に身辺に置き、すべて魏徴の意見を聞き入れてわけではありませんが、自分の鏡として重用しました。
トップに立つ人間には、それだけの度量が必要とも言えます。
私には、トップの器はありませんが、管仲、楽毅、諸葛亮のように王佐の才にあこがれ、晴耕雨読を行い、できれば、王佐の才を発揮したいと思っています。
しかし、周りにトップたる度量の人物はいないものです。
とはいえ、トップの器にはないので、果してどうしたものやら。
あの日
あの日に帰りたいということなんだろうか?
月に1回程度しか更新できないほど、いろいろとしないといけないことが多い…。
残念ながら、売れてしまう本のようですね(少なくとも出版社はそう考えている)。出版社は、初版に対して5万部としていることから、1500円×5万部で7500万売り上げ予想としても、初版に対する印税10%である750万が既に著者に渡っていると推定される。
その価値のある本なのかどうか読まないと判らないかもしれないが、買う気はないので、あえて内容のコメントは避けたい。
そもそも研究者であれば、一般書でなく、論文を証明すべきではないかと思います。
単なる随筆なら、それもいいかもしれませんが…。
あまり、この話でダラダラ書きたくないので、大学院を卒業し、学位を修得したものとしては、残念です。
人は、人生の岐路に立つことが多いです。そして、どっちを選んでも、片方の道がよかったのではないかとつい欲が出てしまいます。結局、どっちを選んでも、後悔してしまうのかもしれません。
一方、選択に悔いなしと思っている人は羨ましいです。決断に自信を持ち、後を振りからない。
そうです! 過去は変わりませんが、未来は変わります。今日は未来のためにあります。過去を踏まえて、未来を選ぶのです。
では、過去の失敗は、未来につながるはずです。でも、どうしても、過去に戻ってしまいます。あの日のように。
未来に向かって生きていく事がしんどくても、時間は限られています。限られた時間の中で、自分が今までできたことは何なのか?悩むことが多いでしょう。
表向きは強がりでも良いと思います。ただ、自分の中だけでは、失敗を謙虚に受け入れ、また失敗するかもしれませんが、学習はその連続です。
そして、大きな成功、業績も、試行錯誤の上に成り立っています。
あの日ではなく、未来の私にと言えるようになりたいものです。