新元号になったときに

日本人の風習には、通過儀礼があります。

最近は、欧米の儀式も参入して、1年中、何らかのイベントがあるようになっています。

 

毎日がどうしてもパターン化するときに、ある意味、通過儀礼を入れることで、心身ともに活性化される可能性があります。

 

実際、今回の5月1日の新元号は、平成のときに比べると慶祝ムードになっていました。

 

即位以外に、吉事であったり、凶事であったり、その節目に、改元されていることもあります。

 

新スタートを言う意味では、1つの節目かもしれません。個々の新スタートを様々ですが、こうした国中の節目もまた、個々の節目になることもあるかもしれません。

 

過去を変えることはできないが、未来を変えることはできます。

 

この節目をどう考えていくのか、個々の課題でもありそうです。

奇しくも、自分自身、大きな変化があり、この節目を迎えました。

年齢的には、人生の後半になっております。晩節を汚さずにいたいものです。

 

五十にして天命を知るとあります。

Second Life(働き方改革を考えると)

諸般の事情で、この歳で職場を変えることになりました。

この年になると、なかなか慣れるのに時間がかかりそうです。

 

こうした決断に付きものは、これでよかったのかどうかと悩むことだと思います。

良くても悪いても過去を変えることができないので、今の環境になったときにいかに自分にとって良い方向を見つけることを考えることかもしれません。

 

これでよかったかどうかは、他人はどうであれ、自分が決めた以上は、前向きにいくべきと頭ではわかっていても、つい、こんなはずではなかったという思うときもあります。

 

それは、自分の調査不足の結果である意味自業自得でしょう。また、前職場も変わる可能性があるときに、良い部分はなくなり、それに反対すれば既存の勢力になってしまうかもしれません。

 

時の流れとともに変わっていく中で、自分も変わっていくこともなるでしょうし、組織も変わっていきます。

 

昔は良かったという表現は、その時代に戻れないので、意味がないかもしれません。

 

机上の空論かもしれません。

時代の変化とともに自分にも変化が

2019年は、平成が終わり、新元号になることが決まっております。

このタイミングなのでしょうか、自分の立場も大きく変わることになりました。

 

ある意味では、今までのキャリアの継続でもあり、リセットでもあります。

 

これは、時流に乗ってということになるのでしょうか?

恐らく、その結果は、10年後になるでしょう。

 

先日、発熱と全身倦怠感で体調を崩し、丸1日、ベッド上安静と内服薬(自己判断ではありますが、抗菌薬など)で何とか解熱したものの、頭痛が残っていて、何だがすっきりしません。年齢のせいにしたいのでしょうが、いろんな見えざるストレスがかかっているかもしれません。

 

年齢と共にましになることもあれば、ひどくなっていることもあります。

 

過去について悩むことも多くなりました。過去は変えることができないとわかっていても、気になることが時々フラッシュバックのように気になってしまいます。気にしても何も変わらず、むしろ過去にとられるために、先へ進むのに逆効果であるとわかっているのですが。

 

判っていても変えられないのは、きっと判っていないからかもしれません。

 

いや、判ったふりをしているだけかもしれない。むしろ、判らないという無知であるべきなのかもしれません。

 

体調を崩して、回復しきれていないなか、オンジョブリカバリーをしているために、どうも思考が途中で止まっているような気がします。これはある意味、防御機能かもしれません。

 

考えても仕方がないものは考えても仕方がない

 

つまり、私だけでなく、通過儀礼の中での新時代への幕開けに、不安と期待、望みと目標を持っているのではないでしょうか?

 

トップは1人でも、ワンマンとは違う

組織において速やかに決断しないといけないことは多々あるために、一見ワンマンにみられるかもしれません。

ワンマンとは違うのは、その決断した後のフォローが違ってくる。

決めて丸投げであれば、誰もその決断についてこない可能性がある。

仮についていってもそのモチベーションはあるのかどうのか…。

やはり、その決断理由を説明できるかどうか?合理的に説明できるかどうか、そして、いかに組織の共通の案件にできるかどうかにかかっています。そして、決断という言葉の通り、何かを決断した時には、何かを捨てています。

 

一方、決断が待てるとき、周りの意見を聞くことも大事です。

人はよく思い込みをする。よく聞き違いが起こったり、都合の良いことだけで聞いているのは、脳が選択している可能性がある。

特に、意見を聞くときには、良い点と悪い点を2つ聞くことにした方が望ましいかもしれない。物事には、良い面と悪い面があるので、その比較によって、何かを捨てて、何を取ることになるわけです。

 

また、決断には、準備が必要です。情報収集して、メリット、デメリットを比較するわけです。無意識にそれをしている場合は、直感で決断しているとも言えます。

ただ、直感の場合、本人にも理由が分かっていないので、結果論になってしまいますが…。

 

 

資格をどう生かすか…

shikaku-japan.com

このようなサイトがオープンしました。

最近は、資格の勉強と受験できていないので、最近の受験情報を知るにはいいかもしれません。

 

最近は、資格を活かした実務的な業務として、一般社団法人の定款作成に関わったりしています。資格を活かせて面白いのですが、自分の時間って限られているもので、いかにうまく使うのはいつも大変です。もちろん、肝心な医療の仕事がバタバタしているのもあるかもしれませんが…。

 

特に、性格上、あまり仕事が溜まっている状態を好まないので、依頼案件はできるだけ速やかに行い、忘れることのないようにしていると、我ながらしんどいと思うのですが、そこは性格なんでしょうね。

 

もう少し余裕ができたら、資格を増やそうと思っています。毎年1つ増やそうと思っているのですが、なかなかできていません。つい勉強が後回し、勉強不足で合格できそうもないと受験申し込みの段階で中断してしまいます。

 

最近は、本当に駄目ですね…。

100年人生もあるのだろうか?

1日はいろいろとあって、なかなか更新できていませんでした(反省です)。今日は時間があると思ったら、依頼原稿が来たりする。気になることはできるだけ速やかに解決しておきたいと思っているためか、依頼原稿は数日で書き上げることにしている。まあ性格だから仕方がない…。

 

さて、人生100歳まであるのでしょうか?

100-今の年齢って、50歳だと丁度折り返し地点?

 

仮に明日のことを考えても明日が来るという保証もない。

朝、起きると生きていることを実感する年齢になってしまった。

 

時代の流れとともに、その時代のニーズが変わり、それに対応していくことは大変になってきている。

 

つい年を取ると、過去と比較してしまう。でも、今日以降を生きているのである。過去を変えることはできないものの、今日以降を変えることはできる。その時にどうしても過去の経験で判断してしまう。経験が生かせることもあれば、生かせないこともある。

少なくとも勘やひらめきを呼ばれるものは、過去の経験の産物である。

 

ふと歴史をみると、結構は歴史は繰り返される。意外と人は学習能力はないのかもしれない。

 

過去から学ぶ、過去にとらわれない、という矛盾する課題は、1つの問題では矛盾でも観点を変えることで両立する。

 

とはいえ、今日以降生きるために、明日目覚めた時に何ができるのか考えていきたい。

特に、最近は、勉強不足なので、少し計画を立てないといけないなあと思うこの頃である。

そして、今日1日何をしたのかその意味を考えるようになってしまった。

 

来年のことを言えば鬼が笑うというが、来年はどうなっていることやら…心配しても仕方がないのだが…。

度量の大きさは?蟹は甲羅に似せて穴を掘る

蟹は甲羅に似せて穴を掘るとは、人はそれぞれの力量に応じた言動を行うことを言います。

 

ふと、人はいろんな人間関係の中で生きています。そして、よく思われたいと思っていることが多いかと思います。悪く思われたくないとも思っているかと思います。

 

でも、よく思っているのか悪く思っているのかは、その人にしかわからないことで、それを推定しているに過ぎない。つまり、思い込みです。自分がそう思っているに過ぎない。人である以上、共通点が多いので、多くの人が共感を得ることが、一定の価値観として共有することになります。

 

しかし、10人いれば、10人の個性がありますので、すべて共有することは難しい。その違いを許容できるかできないかがその人の度量を現わしているのかもしれません。

 

度量が狭いと、人とよく衝突することになります。ストレスが多い中では、度量が狭くなりますし、その度量は人によって異なるだけでなく、人の中でも日々変わってきます。

度量が狭いと、怒りの閾値が低くなります。

 

では、度量を拡げるにはどうしたらよいのでしょうか?

 

実は、答えはないのです。なぜなら、答えは1つでなく、また、時間ともに変わってくるからです。

 

きっと、良い答えがあれば、私も苦労しないですむのかもしれません。

 

単なるの感覚的なものですが、自分も含めて、だんだん度量の狭い社会になっているのかもしれません。

 

度量を拡げるには、やはり努力しかないのかもしれません。

結局、試行錯誤しかないのです。なぜなら、時間は戻らなく、一方通行だからです。