100年人生もあるのだろうか?

1日はいろいろとあって、なかなか更新できていませんでした(反省です)。今日は時間があると思ったら、依頼原稿が来たりする。気になることはできるだけ速やかに解決しておきたいと思っているためか、依頼原稿は数日で書き上げることにしている。まあ性格だから仕方がない…。

 

さて、人生100歳まであるのでしょうか?

100-今の年齢って、50歳だと丁度折り返し地点?

 

仮に明日のことを考えても明日が来るという保証もない。

朝、起きると生きていることを実感する年齢になってしまった。

 

時代の流れとともに、その時代のニーズが変わり、それに対応していくことは大変になってきている。

 

つい年を取ると、過去と比較してしまう。でも、今日以降を生きているのである。過去を変えることはできないものの、今日以降を変えることはできる。その時にどうしても過去の経験で判断してしまう。経験が生かせることもあれば、生かせないこともある。

少なくとも勘やひらめきを呼ばれるものは、過去の経験の産物である。

 

ふと歴史をみると、結構は歴史は繰り返される。意外と人は学習能力はないのかもしれない。

 

過去から学ぶ、過去にとらわれない、という矛盾する課題は、1つの問題では矛盾でも観点を変えることで両立する。

 

とはいえ、今日以降生きるために、明日目覚めた時に何ができるのか考えていきたい。

特に、最近は、勉強不足なので、少し計画を立てないといけないなあと思うこの頃である。

そして、今日1日何をしたのかその意味を考えるようになってしまった。

 

来年のことを言えば鬼が笑うというが、来年はどうなっていることやら…心配しても仕方がないのだが…。

度量の大きさは?蟹は甲羅に似せて穴を掘る

蟹は甲羅に似せて穴を掘るとは、人はそれぞれの力量に応じた言動を行うことを言います。

 

ふと、人はいろんな人間関係の中で生きています。そして、よく思われたいと思っていることが多いかと思います。悪く思われたくないとも思っているかと思います。

 

でも、よく思っているのか悪く思っているのかは、その人にしかわからないことで、それを推定しているに過ぎない。つまり、思い込みです。自分がそう思っているに過ぎない。人である以上、共通点が多いので、多くの人が共感を得ることが、一定の価値観として共有することになります。

 

しかし、10人いれば、10人の個性がありますので、すべて共有することは難しい。その違いを許容できるかできないかがその人の度量を現わしているのかもしれません。

 

度量が狭いと、人とよく衝突することになります。ストレスが多い中では、度量が狭くなりますし、その度量は人によって異なるだけでなく、人の中でも日々変わってきます。

度量が狭いと、怒りの閾値が低くなります。

 

では、度量を拡げるにはどうしたらよいのでしょうか?

 

実は、答えはないのです。なぜなら、答えは1つでなく、また、時間ともに変わってくるからです。

 

きっと、良い答えがあれば、私も苦労しないですむのかもしれません。

 

単なるの感覚的なものですが、自分も含めて、だんだん度量の狭い社会になっているのかもしれません。

 

度量を拡げるには、やはり努力しかないのかもしれません。

結局、試行錯誤しかないのです。なぜなら、時間は戻らなく、一方通行だからです。

 

「こんな人たちに」「排除いたします」に現れる国民感情

選挙では、たった一言で、状況が変わることを思い知ることになりました。

 

「こんな人たちに」「排除いたします」は、実は、同じような意味で、自らの価値観を人に押し付け、人の意見に耳を貸さず、驕りから出てくる言葉と言えます。この2つのワードは和に反します。

 

日本人の重んじる、和の心が傷つけられたと感じるのではないでしょうか?

 

和は、2つの価値観が常に競合します。

①和を重んじるあまりに、出る釘をたたかれる場合

②和を重んじ、協調していく場合

どちらも昔から見られた風潮です。

 

謙虚と言っても、言葉でなく、行動に示すことが重要です。

 

「謙虚」とは、コトバンクから引用すると、「控え目で、つつましいこと。へりくだって、すなおに相手の意見などを受け入れること」とあります。

 

最近の、神対応と言われる行動も、「謙虚」に対応した結果ともいます。

 

人はつい、思い込みをしやすいです。思い込みをしやすいと思っていると、謙虚になれるのかもしれません。

 

日本は、倭の国と呼ばれました。倭、和、(人の)輪の3つ「わ」はキーワードとも言えます。

聖徳太子憲法17条に「和をもって貴し」とあり、その精神が今も生きているのかもしれません。

 

「和」が問われている時代になったのかもしれません。

 

自動車の運転も和をもってすれば、トラブルは少なくなるとも言えます。

 

日本は生き残るための1つは、軍事力だけでなく、「和」とも言えます。

 

そういえば、「平和」という言葉もあります。

 

子どものことを考える政治家は本当にいるのか

子どもたちに引き継ぐのは、負担だけでよいのでしょうか?2年後に消費税を教育の無償化に使うと言って、選挙になったけれど、2年後にどうなっているか判らない。

 

子どものための政策を実行するのは、保育園を管轄する厚生労働省です。そして、病気にならないためのワクチン行政も厚生労働省です。

 

子供たちを取り巻く職業は、結構しんどい割には、あまり報酬的でも社会的にもあまり評価されていないことが多い。保育士、教師、小児科医など。

この点も改善してほしい。

 

 

もう少し、私が若くて、看板、地盤、カバンがあれば、選挙に打って出てみたいところですが…。

 

加計・森友突破解散から自民の信任するかしないかの選挙に

準備が整っていないのを見込んで、仕掛けたところ、希望の党日本新党時代のようにキャスティングボードを握る程度であった可能性から、民進党の体力不足によって民進党希望の党に合流し、そうなると、自民対非自民の構造ができてしまったようである。

 

公明党がキーポイントになってきました。都議会のようになるのか?

 

選挙に政策論争と言っているが、政策論争にならない。それは、今まで公約が守られたことがない我々、国民にとって、もはや政策で選ぶことができない政治不信が続いているからである。

 

自民でも非自民でも今後、改憲になる可能性があります。国家安全と第9条および自衛隊の問題から言えば、現実を会わない部分が出ているのも事実でしょう。しかし、私として、護憲したいのは、むしろ第97条です。

 

憲法第97条は

第97条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

 

時の政権によって、基本的人権が捻じ曲げられないためにも、この条文は非常に重要です。この条文こそ国民主権の根源です。

 

さあ、どうしたものやら、国民不在の党利党略の選挙に対して、YESではなく、NOをつきつけるのは、どちらなのか?

 

また、権力闘争でのドラマが始まってしまった。

政治家一人一人の質の低下の中、真の政治家はいるのだろうか?

政治家になって勉強する人より、既に法の知識のあるものを選ぶシステムが必要なのかもしれない。税金で勉強されても…。

 

とはいえ、行政資格をもって法知識のある私でも、資金はないし、選挙には出れないなあ…。

隗(かい)より始めよ

中国の戦国時代に、燕という国がありました。隣に斉という大国があり、この大国の力に押されていました。燕の王は、郭隗(かくかい)に賢者を集める方法を尋ねました。郭隗は、まずは私を厚遇してくださいと言い、私のようなあまり優秀でないものでも優遇されると知ると、優秀な人が集まってきますと。

その言葉通りすると、斉という国をほとんど無くなるぐらいまでに戦いに勝った楽毅と呼ばれる優秀な人が燕に来ることができました。

このことから、まずは身近なことから始めよということから、転じて、まずは自分から始めよという意味になっています。

 

自分が言い出したことをまずは自ら実行に移すことで、人への行動を促すことができます。

 

いくら立派なことを言っていても、自らの行動を常に照らし合わせて、自分の言に背かぬような行動をしたいものです。有言実行は難しいものの、手本を示すことも大切です。

 

この中国戦国時代、王に仕えた優秀な人材も、王が変わると、変わってしまうために、なかなか強い国が現れませんでした。戦国時代を統一した秦は、商鞅の新法を採用し、王が変わったときに、商鞅は処刑されましたが、新法だけが残っていき、強国になりました。継続、持続可能なビジネススタイルは難しいものです。

 

 

士は己を知る者の為に死す

自分の真価を認めてくれる人に対しては、その人のために尽力できると意味です。

 

自分が思っているより、上の評価が低いことがあります。それは、上の器量がないのか、実際に自分の評価が低いのかどちらかです。

 

諸葛亮孔明も、水鏡先生に、臥龍と称され、その頃、不運の英雄として名を成していた劉備玄徳の軍師に迎えられて、その才能を発揮することができました。

 

豊臣秀吉が天下を取れたのは、黒田官兵衛を軍師として、その意見を聞いていたからです。

 

暗愚なトップは、井の中の蛙大海を知らなく、人の意見について聴取せず、後になってバタバタします。そして、非常に判断がぶれます。そのため、現場は混乱を招きます。

 

今回、いろいろと思うところがあって、トップの力量が重要だと実感しました。そして、人は自分の限界を知り、自分のできないことを補う人材、そして、諫言が耳に痛くても聞き入れる裁量をもつトップがいかに少ないことか。諸葛孔明が晩年、劉禅の補佐でなければ、もう少し才能を発揮できていたと言われています。

 

己を知る者がいません。なかなか自分の才を活かせることができません。

 

とはいえ、自分の才はオンリーワンですが、知識の幅を広げようと思っています。